意を決し、国司様のおられるふすまの前まで来た照手ではありましたが、さすがに少し緊張の面持ちが見てとれました。
そこで照手は、隙間からそっと部屋の中をのぞいてみたのです。
視線の先におられる国司様の御身の、今は亡き愛しい我が夫、小栗に似ていることでしょう。
何事にも耐え忍び、小栗に操を立ててきた照手の心が、ざわざわと乱れました。
どうしてもそこから先に進むことができない照手を見かねたよろず屋の長は、その腕を掴み無理やり国司様の御前に座らせたのです。
目の前に、我が夫に生き写しの方がお座りになられている。
しかしこの方は私の夫ではない。
照手はそう己に言い聞かせ、笑みを作り「お酌を…」と銚子を持ちあげます。
しかし国司様は酌を持たず、照手にこう問い掛けました。
「常陸小萩と申すのは、そなたのことか?常陸の国の誰の御子であろうか?」
まさかの問いかけに照手は驚きましたが、冷静を装うため表情を固くさせると強い口調で言葉を返したのです。
「私は、己の主人の命でここにお酌に参っただけのこと。何故あなた様に私の昔話をせねばならぬのでしょうか。今酌が必要ないのであれば出直して参ります。」
よろず屋の長はその様子を、胆を冷やしつつ見ていましたが、下女の無礼な物言いに国司様は気にした様子もなく、席を立とうとする照手を引き止めておられます。
「これは失礼した、小萩殿。他人の昔を聞くには先ずは己を語らずばなるまい。私は常陸の国の者であるが、相模の国のとある姫君に恋をして、その父君や兄弟の怒りをかってしまうこととなり、毒殺されてしまったのだ。
ならば何故、私は今ここに居るのであろうか?
それは私とともに殺された家臣の者たちが、私の魂をこの世に戻してくれるよう閻魔大王様に懇願してくれたのだ。しかし私は元の体で戻ってこれたわけではなかった。
目も見えず、耳も聞こえぬ餓鬼阿弥の姿でこの世に戻されてしまった。
だが、心ある者たちが私を熊野の湯に浸け、今のこの姿へと戻してくれたのだ。
……まこと信じ難い話ではあると思うが、そなたならば信じてくれよう、常陸小萩殿?」
そう言って国司様が差し出したのは、あの餓鬼阿弥との別れの際に首に掛けてあった木札でした。
その裏には、照手が追い書きした文がはっきりと残っています。
「この車の施主は数多ある中に中山道はよろず屋長衛門の抱えし常陸小萩」
照手は驚きで声も出ません。
しかし国司様は、まだ話を続けておられます。
「そなたにお礼を申し上げたく思い、ここまで来たのだ。会うことができてとても嬉しく思う。ただひとつ、胸に残る思いは我が妻のこと。私がそなたに会えたように、我が妻にも会うことができようか。」
照手は、涙でむせ返りそうになりながら必死に喉から声を絞りだしました。
「もはや、もはや何を隠すことがございましょうか。この常陸小萩、本当は常陸の国の者ではございません。相模の国の横山の姫、照手でございます。私も、あなたにもう一度お会いできて嬉しく思います。」
次は国司様、いえ小栗が驚く番でした。
探し求めた恩人に会えたと思えば、それはなんと我が妻、照手姫であったのですから。
二人は手に手を取り、再会を喜び合います。
そして、離れていた間のお話を深く深く語り合いました。
照手に起こった幾多の哀れな話を聞いて小栗は大変に憤慨し、よろず屋の長に処罰を与えようとしたところ、照手が慈悲を乞うたのです。
「あなたが餓鬼阿弥となられていたとき、私が長殿に三日の暇を乞うたところ、慈悲に情けをあい添えて五日の暇をお与えになったのです。このように慈悲深い長殿にどんな領地でも与えてくださいませ。」
それを聞いた小栗は、そう訴える照手の心を汲んで、長夫婦に美濃十八郡を与えましたが、小栗は己を毒殺した上、娘の照手までをも殺めようとした横山一門を許すことはできませんでした。
いざ横山親子を討たんとしたとき、また照手が小栗を止めたのです。
「父殺しは天の大罪と申します。どうか横山攻めをお止めくださいませ。できぬと言うならば、横山攻めの門出に私を殺し、その後に横山攻めはなさってくださいませ。」
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